昭和41年02月17日 夜の御理解
(途中末尾切れ)
今日は、親教会の月次祭に引き続いて、善導寺の総代さん方の会が、毎月一回ずつございます。その総代会が、私の方が場所の当番になっておりました。で引き続いてこちらであの、親先生ご夫妻もそれから総代さん方、本当に私は有難いと思うた事は、今日はもう、全員出席して頂いたこと。一人見えてられませんで、この方はもう病気で休んでおられます。ちょうど私とも十四名、ここへ座らせて二階の客間に座らせて頂いて思うんですね。本当に有難いことだなぁと。
これに子供さんでも、もう一人多かったら、入られんとこじゃった。きっちりですもんね、応接台を囲んで、きっちり十四名並ばれるようになっておる。先ほど愛子が言いよりました。もう本当にいつもの事ながら有難いですて。もう何でんかんでん、かったりしたこっじゃった。第一あのお客さん用のお湯呑みが、二十、三十ぐらいあったんですよ。形の良いお揃いがですね。それがきっちり十四しかなかったそうです。本当にもう神様は、そげんとこまで計算に入れてあると言うてから、ま有難い。
神様のその働きがですね、身近に感じれれると言う事。それが有難いでしょうが。有難いなぁ。それで今日あの関さんが、私は何時も送り迎えをして下さる自動車が、丁度今日はお店のほうが暇で、あちらへ待っておって頂いたんです。それで私が最後に、丁度三回、行たり来たりしてもらう。もう三回きっちりでした。もう自転車で見える方も、単車で見える方もありますから、最後に親先生ご夫妻と、私と帰ってまいりまして、丁度まぁ一時ぐらいから、時間励行で始めることが出来たんですけれどもね。
まぁ考えてみますと、本当にそういう例えば、一つの祈りと言うか願いと言った様なものが、私共の信心以上にこう、神様のお働きと言うものは、もう計算に入れてあるということですね。こら本当に例えば、皆さんバスでばらばら見えたりすると、中にはお年寄りの方もあるし、と思うておったけども、みんなそのお年寄りの方達を、自動車でその運んであげることが出来ると言った様なね。しかも喜んで御用して下さるんです。有り難いと思うですね。
おかげを頂いてから、もう皆さんゆっくりして下さってから、夕方まで。それでちょうど、また親先生ご夫妻を送らせて頂いてから、親先生あのぜひ一遍、あちらの御造営の、あちらの方を見たいとおっしゃりよりましたから、それで奥さんもお揃いじゃけん。「あの、今日ご案内しましょうか」ち。「ほんなら、見せに連れて行ってもらおうか」と仰いますもん。それでちょうど、岸のお婆さんと、あの千崎の奥さんと四人、私と五人であちらへ参りました。
それであちらへご案内して、ま、帰らせて頂いたようなことでございますね。もう本当に、もう充実した神ながらな日であったと、こういう風に思いますですね。そしたらです、先ほどお風呂入っとりましたら、「あの善導寺の総代さんが見えとりますばい」ち。「誰が」「高木さんが見えとります」それがその、どういう時間の間違いかですね。一時と七時の間違いだった。ね。篠原さんの従兄弟さんに当たられる方なんです。昨日も話しよった。「明日はお宅の従兄弟さんも見えるとですばい」ち。
「はぁ、そうですか」ち。昼じゃお会いは出来ないですけども、さぁおかげを頂いて、久し振りに面会が出来るですよ。ちょうど吉永さん達もですね。だけじゃありません。本当にあの心ゆっくりです、あのまたちょうど七時から、ちょうど御祈念の時間まで、お食事でも差し上げてから、色々信心話でもさして頂いてから、まぁ私もおかげを頂くわけなんです。本当に私はおかげを受ける人は違うなぁと思うんですね。
先ほど、お話のなかに高木さん、こんなことを仰っておられるんです。先生私はあの、こうして、ご信心させて頂く様になってから、本当に日々有難い教えを頂いておりますから、ね。どこか違う生活に入らなければいけないと、何時も心掛けておりますとこう言われた。ね。そしてもう本当に、せめてこのことぐらい。せめてこの事ぐらいはと言うことをです。何時も心掛けさせておると。これは職場の上に家庭の上に、もうそれをいちいちお話をすると、本当に高木さん、その人がもう大体実意な方なんです。
まぁここでいうなら、繁雄さんのようなタイプの方なんです。何時もそれを思うんですね。そのそういう良い生まれつきを持っておられる上に、その教えと言うものが、高木さんをいよいよ、光りあうものにしていくわけなんです。なぜかてそういう思い方なんです、信心とはおかげ頂かんならん、おかげ頂かんならんち言うてから、信心ちゃまるきりその、拝むことやら、おかげ頂く事のための信心のように思うておる人があるんです。ね。信心させて頂くようになったら、少しは変わらにゃと。どこか違わにゃと。
そのことばかりを考えておると。職場の上だけでもいわば、高木さんがなさるお仕事だけは、ころっとしておる。それを皆さんが、こうやって喜んで下さいますと言うて、その、お話になっておられますですね。どうでしょうか皆さん。ね。本当に皆さんの、日常生活がです、どれだけおかげを頂きよる事だけは違う。ばってんがほんなら、どれだけ信心させて頂きよるけん、有難い生活させて頂きよるか。
いや変わった少しは違った、ましな生活させて頂きよるかという事になると、本当に信心しておっても、しておらんでも、それこそ信心のない人達から、ね。あれどんが金光さまの信心するばってんち、言われるようなことではいけないですよね。ね。よかつはよか。人間は冷たい。例えばですよ、という様なことだったらです。本当にこれはそれとは、高木さんの言われる、それとは反対のことになる。
なるほど信心しござるけん違うというもんでなくてから、信心しよったっちゃもう、金光様の教えちゃ、あんくらいなもんじゃろになってしもうて、神様のお名まで、汚すようなことにまでなりかねないのですからね。私は本当にここのところをですね、思い続けることだと。金光様のご信心を頂いておると、ね。どこか違わな。ね。どこか違わねばと言う、私は、それなんだと思う。ね。
今日朝の御祈念に、今毎朝合楽の田中さんが参って見えるんです。有難いですなぁ。おかげを頂かれるとですね、もう合楽の部落の人達が、みんなもうあちらにその、注文があっとるだけでも、もう十人ぐらいあるんです。私も一遍どうでんこうでん連れて参ってくれち言われて。言ってる訳なんですよね。今日もそのお届けがあった中にです。先生今日も、とっても広大なおかげを頂きました。息子さんが大学入試のことのために、一生懸命、参ってきておるわけなんですね。
ところが先日から、試験がございました。ところがその発表の日に、とうとう通知がなかったんですね。それでもうがっかりしとったけれども、もう一回もう一箇所受けるとこがあるからまぁせめて、そこのところを、ね。そしたらその息子さんが言われるんです。ね。「お母さん、あんたが一生懸命、椛目に参ってくれよるばってん、私はもう今度おかげ頂ききらん時にはもう、金光様止めんの」ち。私はねこらもう、信心のないお参りをしてこない息子なら良いですけれども、信心させて頂いたお互いがです。
いわゆる、おかげだけが目的だと、そういう事になるんですよ。それがおかげ頂くでっしょち、参るばってん。もうおかげ頂かせらっしゃらんごたるならば、参るもうそれぎりでやめる。もうその心がすでにおかげを受けんです。椛目に、そうにゃ参ったばってんが。とうとおかげ頂きらじゃったけん止めた。ね。そのとうと止めたて、それがもうおかげを受けないんですよ。ね。
信心をさせて頂いて、私共が本当に教えが、身に血に肉にならせて頂いて、日常生活の中に、なるほど御道の信心御道信奉者の方は、やはり違うといったようなものがです。先ほど、高木さんが言うておられます。私がまちっと、おかげば頂きますと、誰にでん例えば、部落にでも病人さんがあります。けども私がおかげ、頂きりまっせんもんじゃけん。お導きも出来ないと、こう言う意味のことを言うておられたけれどもです。なるほどおかげも受けなければならない。
例えば田中さんがおかげを受けていかれるという事はです。ほんならまぁだ形の上において、いっちょんおかげを受けておられんという事じゃないです。ね。所がその今朝方からです。先生あぁたが仰っとった様にです。見よってんのおかげ頂くがと言いよりなさったが、昨日その友達から通知が来た。ね。確実に出来ておるてけどもこらぁ自分な、無いほうだから、学校から正式に通知があるだろうと言うて手紙が来た。
こっから参ったげなら、お母さん来たばい来たばいち言うてから、手紙ばこうやって見せるげなもん息子さんが。何が来たつのち言うちから、あんまり、広げるけん申しましたら、おかげ頂いてどうでんこうでん、いっちょあそこの若先生ば、僕が知っとるけんで、あのこんだ面会に行くち言うてから、もうそういう風に心が弾んでくる。お母さんがおかげを頂きますとですたいね。
でおかげを頂きますとそういう風に、もうそのもうおかげ頂かんごたるなら止めんのち言いよった息子までが、そのお参りでもさせて頂こうという事になってくる。だからおかげを受けるということも大事。ところがです、おかげだけに釣られてくるのは、もろいです信心が。ね。私は信心させて頂いてです。おかげの受けられない。五年、十年、十五年一生懸命、信心しておるけれども、形の上においてです。あそこは信心してござるけん、やっぱ儲け出しなさった。
信心しよりなさるけん、病気もしなさらんと言った様な事ではなくてです。信心させて頂いても、病気が絶え間ないと言うところがある。信心してござるが、どうしてあげん、貧乏せんならんだろうかという所もある。ね。けれどもそこそれほど、実を言うたら本当のおかげになるのです。皆さん覚えておられるでしょうか。昔、吉木からの、国武ふじいさんち言うてから、今北野さん行っておられるですたい。あっちが息子さんの、もう身体全身のあの、それこそ鎖のようにカサが出来ておりましたよね。
ちょうど私の若先生と友達でした。まぁだ小学校に上がる前の時でしたか、夏の時でした。色の白い可愛らしい、女の様な子ですけれども、とにかく身体全身です。もうあの人が参ってくるとですね。周囲には誰でん座り手がなかごと、匂いがしよりました。座ったとこには、もうつうがおててから、もう本当にそれは、見苦しいことでした、ね。そしてちょうど、小学校に上がる頃まで、一生懸命に参ってきました。
もうこれこそもうお湯と言うお湯、薬を言う薬、もうあらゆる治療をしたけれども、おかげ頂けなかったんです。ね。そして小学校に上がらせて頂く様になった。そしたらある時でした。その子供をおんぶしてから泣き泣きふじしゃんが、ここへ参ってきたです「先生」ち言うたなりここで泣き出しました「どうしたつの」ち私が言いましたら、「もう本当に先生、こげな情けなかこつはなか」ち言うて、あの言われるんですね。
今日私はあの学校にあの人ば迎え行って、そしてこっつぁんまたお参りをさせて頂こうと思うてから、ちょうどあそこに、子供を迎えに参りましたらです。十人ばっかりの子供がうちの子供ば、あぁた取り回しとるじゃないですかち。そして石ば投げたりその、「あら腐れんごたるやっだ」「あら、そばに寄るな」ち言うちから、十人ばっかりで取り回してからその、こなしとるとこじゃったそうです。
もうそれこそその、子供達を突き退けてです。どげんして子供ばかき抱いてから、逃げるごとして、あのこう出てきたか覚えませんち言うてから、お届けしたことだったんです。私もそれを聞いて、術ないなぁと思うた。こらどうでもおかげ受けないけんなと思うた。ね。そして私がそのことを、直、神様にお届けさせて頂いたらですたい。ちょうどあの、お宮さん辺りに参りますと、こうお宮さんのおきてと言うた様なものが、下の方に書いてありましょうが。こんな立て札のようなあれ、ね。
その立て札にです、色々と書いてあるんです。私が御神願に頂くのが。ね。これが神の宣伝になるのぞと、神様が仰った。神が宣伝に使うのだから、ね。この子がおかげ受けないはずがない、神が使うのだから。ね。神に使われれば、また神様が使われて下さるのです。どういう例えば、宣伝に使われておるかというとです。もう金光様にゃ、そうにゃ参りよってばってん、おかげ頂ききらっしゃらんと言う宣伝ば、して回るようなもんて。けれどもそういうものが、一人でも多ければ多いだけです。
その周囲に、金光様てちゃやっぱ、難しかと言われれば言われるほどです。沢山の人の目が、そこに集まっておるという事なんです。はぁちったあそこんとは難しかがて、そうにゃもう医者も薬もかけちゃっとばってん、出来んけん何の椛目の金光様に参ってから、おかげ頂こうかいと言う人がです。そして皆がおんぶして参ってくると、村内の人達が言いよった。ふじしゃんあんたが椛目ん、金光様でおかげ頂くごたるなら、もう吉木中の者が、参るごつなるばのち言うちから、言う人があった。
そう言う様な意味合いにおいて、神様は一生懸命宣伝さしてござった。百人の者よりも、五百人の者に、分からせるためにはです。その信者の根気に応じて、ね。その根気に応じて、神様がご修行くださる。勿論そういう場合は、その人の自覚というのがです。めぐりの深い私のほうが、誰よりもめぐりの深い私であると。だから難儀であっても、その難儀という事をです。
お礼を申し上げれるような心でです。お取り払いを頂いて有難し。信心しておって、変わった事が起こってきたなら、おかげと心得てという様な気持ち。今朝の御理解のようにね。シャンソン、しゃんとすりゃ、損するという事になってくる場合があるて。あれが有り難か、有り難かと言いよるが、どれくらい有り難かじゃろかと思うて、ちょっと突いてみなさるような場合もある。ね。ですからね信心をすりゃ、自分の思うようになる。人の見て、なるほどおかげと言うてです。
おかげと言われるような、おかげばかりではないて。それとは反対に、悪口を言われるようなのは、もっとおかげだと言うこと。それは神が氏子を使うと仰る。私共はそうだったでしょうが。もう私共の家族をあげてから、本当にそら自分で思うくらいに、一生懸命でした。ね。そしてどうしてあがしこの信心、一家中でしござるとに、あれだけな貧乏しなさらんなんだろうかと、皆がやっぱり言うくらいにありました。評判するくらいにありました。ね。けれどもここへ入ってきてから感ずるんです。
まぁあの貧乏しござる。しかも病人さんがある。ずっと長く目で、妹の婿が休んでおりましたから、ね。それでも病人のあるような家庭じゃない。本当に鍋の中を開けてみたら、びっくりするごたる、いわば食生活なら、食生活の中にでもです。もう何時も私の場合はもう、それこそそれこそ笑いの絶えたことがなかった。もう金光様ちゃどうして上げん、何時も年中拝まんならんじゃろうかと言うて、ここの道を通っていく人がです。もうどっか、かきばたの、ここは道ですからね。
直ぐこっから拝みよるとが分かる、柏手打つから。もうそうにゃ拝みよるごたるがと言う訳なんです。ね。金光様ちゃどうして上げん、何時も拝まにゃんじゃろうかと言う位に、成程信心もさせて頂いたけれども、病人も良くもならなかった、やっぱり亡くなって参りました。次々と兄弟が三人も亡くなりました。貧乏はもういよいよこれ以上な貧乏はなかろうと言う貧乏に追い込まれて行く様な状態になりましたけれども、ほんなら中心である、私の心の中にはもういよいよ、有難いものが育っておったと言う事。ね。
国武さんじゃないですけれども、あんたがおかげ頂くごたるなら、あんたほんなこて、吉木中の者が参るばのと、いう様なです、ね。それからもう瞬く間でした。ね。おかげ頂きまして、この頃からもうそのなんて言いよったか、嘉昭さんだったか、義之さんち言いよったかね。あそこの息子はが、もうそれこそもう小ガサ一つ、それから出来んと言うて言うとります。おかげを受けました。もう本当にあぁいう様な時代でしたですね。吉木から、あんな、どろどろ参って来よりましたもん。
けども、そういうおかげに釣られて参ってきた人は、今じゃ続いとらんでしょうが。もう今続いとるとが、国武正子さんだけが残るですばい。だからおかげに釣られて参ってくるのじゃつまらん。ね。その人の信心の内容なんです。信心とはおかげを受ける。病気直しや災難よけの神じゃないて。心直しの神じゃと仰る。どんなに神様からです。ほんなら高木さんあたりのように、ね。生まれつき実意丁寧な素晴らしい心を持ってござってもです。それが信心によって磨きだされなければ、同じ事だということ。
なるほど信心させて頂きよるけん。普通であってはならない。少しは変わらな。少しは、違ったところもなからなと言うことも大事だけれどもです。それよりももっともっと大事な事はです。私の心自体が光り輝きするようになるという事です。ね。そこに私は本人も助かるなら、その周囲もまたその光に潤うて来るような、おかげになってくるということなんです。ね。信心とは本心の玉を磨くものぞや。信心とは日々の改まりが大事ぞと。これなんです。ね。
ですから場合によっては、人情で見ればです。信心させて頂きよってと言うて、却って、神様の顔の泥を塗るようなことじゃなかろうかと、思うような事もあるのだけれどもです、ね。そういう時こそ、今こそめぐりのお取り払いを頂いて、有難しと言う信心に進まなければならない時。今こそ、神様が、御用に使うて頂いておる時だと言うことなんです。ね。金光様の信心すりゃ、どうしてあげん、貧乏せんならんだろうかと、いう様なです。それがもう目立てば目立つほど、おかげだと言うこと。
神様の御用に立っていきよるという事。ね。そして私が思うのです。どういう例えば、難儀な事でありましてもです。神様が食べさせなさらんという事はない。いよいよぎりぎりの時にはなんとか、そこに顔を立ててくださると。いわば万事万端の上に、いわゆるタイミングよう、お都合お繰り合わせを下さる。私共のあの激しい修行時代でもです。これがなかったら、とてもやっぱり持てなかったろうと思う。形の上においてのおかげじゃないけれども、自分の心の上に頂くところの有難さと。ね。
そして神様のおかげじゃあるなぁと言うものをです。身近に感じ。例えば今日一日、私が感じたように。ね。例えば集まられる方達がです、ね。私を含めてきっちり十四名であったということ。これに高木さんが、ほんなら間違えられずに、おいでてもしおられたら、そしたら座るとこの無かっちゃん。ね。お茶のみ茶碗の、いっちょ足らんという事になるとこじゃった。もう一事が万事そうなんです。ね。そういう例えば一分一厘の間違いの無い働きの中にです。ね。
私も日常おかげを頂いておるから、信心辛抱もまた楽しい、有難いということになる。こういう神様の働きを頂いておるのであるから、おかげにならんはずはないと言う確信が持ててくるのです。ね。そのなかに痛いこともある。歯がゆいこともある。けれども有難いのです。神様のお働きの中に、いよいよやれ痛や、今みかげをよという心になる。今こそめぐりのお取り払いを頂いておるんだと思うから、いよいよ元気が出る。ね。そこにです。例えば今こそ導きが出来なくてもです。
その信心がおかげそ頂かせて頂いた時に、その光に、例えば限りない運営が出来るように。いやと言うても、その人の信心についてこなければ、皆が馬鹿らしゅうなってくる。ね。私は本当にそういう意味でです。私は椛目で一番有難いというのは、今日も先ほど高木さんと話したことでしたけれども、ね。椛目の場合はですね。これだけ、沢山の信者が参って来よりますけれども、あの、御造営なんかの事なんかが、本当にあぁいう大変な事が、このくらいの信者で出来ておるという事がです、どういうことでかというと、家族が皆あげて、皆信心しておるからだという事ですよ。ね。ですから、その御造営のことでも、家族中のものが打ち込めるから出来るんですよ。ね。それには先ず、中心になる信心がです、例えばお父さんが信心しよるなら、お母さんが信心しよるならです、ね、これはやっぱ信心せにゃ馬鹿らしかと、その連れ合いが子供達がです、思うような
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